糸東会の沿革

 

摩文仁 賢和

 

 

糸東会は、その名の示すとおり糸東流開祖「摩文仁賢和」から伝承された糸東流空手道を学ぶものである。

 

沖縄空手の二つの流れ、糸州安恒先生の系統(首里手)東恩納寛量先生の系統(那覇手)を伝承し優れた伝統的技法と力学理論技法を取り入れ、糸州・東恩納両先生の頭字を一字ずつ頂いて糸東流空手道と名乗った。

 

開祖、摩文仁賢和は、明治221114(1889)沖縄県首里市(那覇)で生まれた。

 

幼少の頃、身体虚弱であったが祖先の武勇談に発奮し明治36(1903)当時沖縄で「からて」の名人といわれた首里の糸州安恒に師事する。

 

明治41(1908)那覇の東恩納寛量にも学ぶ。

 

琉球古武道として新垣安吉の棒術・多和田真八に釵術を、その他添石流棒術も学ぶ。

 

大正5(1916)自宅で道場を開設、その一方警察並びに学校等でも指導に努める。

 

昭和6(1931)関西大学、昭和17(1942)東洋大学はじめ、大学・高専等の指導に当る。

 

昭和6(1931)大日本空手道会(後に日本空手道会に改称)を設立、現在の糸東会の礎をきずく。

 

昭和27(1952)523日永眠す。

 

糸東流について

 

 

空手が日本本土に移入された時期に、その普及に尽力を傾けた人間たちの多くは、己の志(こころざし)が達成されるのを自分の目で見る事なしにこの世を去っている。

 

なら、彼らは不幸であったのか?

 

そうでは、あるまい。

 

この稿の主人公である摩文仁賢和に、「何事も打ち忘れたり、ひたすらに、武の島さして、漕ぐがたのしき」と詠んだ歌がある。

 

往々にして空手家や武道家は「克己」、「闘魂」そして現在なら「押忍」などと武張った言葉を並べたがる。

 

それは、それで良い。

 

しかし、これほど自然体な空手三昧へ行き着いた摩文仁の境地は、すべての糸東流空手家が自分の流派の始祖を語るときに、胸を張って誇りに思えるほどのすばらしいものだ。

 

武道家でこれほどの境地を表し得たのは、辞世の句として「うけゑたる心のかかみ影きよく、けふ大空にかへすうれしさ」と詠んだ、幕末の直心影流の剣豪であった男谷精一郎信友(1798-1864)くらいのものである。

 

武道の果てにある、「たのしさ」、そして「うれしさ」を、これほどまで素朴に表せた人間を、うらやましく思う人間は著者のみではあるまい。

 

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第三者の目から見て、摩文仁の興した糸東流やそれに連なる流会・派は「最強」「絶対」など、マスコミ受けする言葉などとは、反する位置にあるイメージだ。

 

流派の保持する形にしても、沖縄古伝の形と比較すればそのスポーツ化は否めないが、他の日本本土の流派と比べれば非常に地味な動作で始終する。

 

しかし、沖縄空手、そして日本武道の根源とは自らを守ることを第一義とし、他人にみせる、あるいは他人と争うことを目的として生まれてきたのではない。

 

人と争わず、わが身と愛するものを守り、社会に貢献する。

 

これが平和に時代に、武術が武道に昇華されていった時の結論だともいえる。

 

このように永続する日本文化に繋がる流れとして、糸東流という流派を捉えた場合には、「君子の武道」と謳った摩文仁賢和の意図が明確になるのだ。

 

 

月刊「空手道」空手三国志 新垣 清著より

 

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